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2023年6月1日

漱石の猫

梅雨空の低く垂れ込めた川沿いの道に雲の灰色を映した草木の緑がかすかに匂い立ちます。

さて、時は明治37年(1904)の初夏の頃、当時は東京帝国大学などで英語の教鞭を取っていた夏目漱石の千駄木の家に、生まれて間もない子猫が現れました。猫嫌いだった鏡子夫人が追い払っても、つまみ出しても、放り出しても、その猫はまた家に入ってきました。ある朝、例によって泥足で上がり込んだ猫の対策を案じていたところに漱石がやって来ました。

「この猫はどうしたんだい」
「何だか知らないけれども家へ入つてきて仕方がないから、誰かに頼んで捨ててきてもらはうと思
つてゐるのです」
「そんなに入つて来るんならおいてやつたらいいぢやないか」

主人の一声でまるで書生のように「置いてもらう」ことになった猫は、大威張りで好き放題に振舞います。子供たちを格好の遊び相手にして悪戯をします。ある時はご飯のお櫃の上にのぼり、また、ある時は夫人を尻目に、腹ばいで新聞を読んでいる漱石の背中に乗ってすましています。夫人はおもしろくありません。

そんなある日、家に来ていた按摩のお婆さんが猫を抱き上げて仔細に調べ上げ、夫人に向かって、全身足の爪まで黒いこの猫は「珍らしい福猫」である、と鑑定します。これ以降、夫人も猫を可愛がるようになり、猫は夏目家で不動の地位を築きました。
明治38年1月に『吾輩は猫である』が発表されて漱石の文名が一躍上がります。すぐに続編が書かれ、『猫』に並行して続々と短編が発表されました。この猫が漱石にもたらした福徳はご周知のことと思います。明治39年には『坊っちやん』『草枕』『二百十日』が次々と発表され、漱石は「維新の志士の如き烈しい精神で文学をやつて見たい」と考えるようになりました。明治40年3月、漱石は一切の教職を辞めて東京朝日新聞に小説・文芸欄のホープとして入社しました。その年の9月、夏目家は早稲田に移り住みます。

漱石が執筆などで多忙の中、猫は段々と痩せて日がな一日縁側でぼんやりと寝て過ごすようになりました。やがて、尻尾の毛が痛々しく抜け始め、時折、苦しそうに吐き戻すこともありました。漱石は宝丹(胃もたれ、吐き気、嘔吐等に効能のある市販薬)を水に溶いて飲ませてやるよう夫人に指示したりします。縁側にその身体を小さくしてうずくまる猫の眼は虚ろになり、「眼の色は段々沈んで行く」ように見えます。猫はますます弱って唸り声を挙げるようになりました。

囲炉裏の縁で一日唸っていたのが最後でした。翌朝、物置の古いかまどの上で死んでいるのを発見されました。明治41年(1908)9月13日のことでした。漱石は数人の弟子たちに黒縁の葉書で猫の死亡通知を送りました。弔句を寄せた者もありました。

先生の猫が死にたる夜寒かな   松根東洋城

吾輩の戒名もなき芒(すすき)かな  高浜虚子

猫は自宅の裏庭に丁寧に埋葬されて、白木の墓標の表に「猫の墓」と書かれ、裏には漱石の追悼句が記されました。

  此の下に稲妻起る宵あらん

翌年の1月、漱石は東京朝日新聞の文芸欄に『猫の墓』と題して亡くなった猫の顚末を綴りました。幼い子供たちは猫の墓に毎日花を活け、茶碗に水を供えました。亡くなって3日目の夕方、数え年で4つの愛子さんが猫の墓標の前の茶碗の水をおもちゃの杓子で飲む姿がありました。漱石は書斎の窓から猫の死を悼む幼気ない娘を見守っていました。看取る者もなく亡くなった猫を不憫に思った漱石は、気持ちを同じくする家族を描写することで、ペットロスを乗り越えたのかも知れません。

猫は早逝したように思いますが、ある研究によれば、1990年時のネコの平均寿命が5.1歳とされていますので、漱石の猫は天寿を全うしたと言ってよいでしょう。近年、ネコの寿命は目覚ましく伸びて15歳を超えるまでになっています。
猫の十三回忌の記念として鏡子夫人によって建てられた「猫塚」は先の戦災で失われましたが、1953年に復元され、今も自宅跡地の新宿区立漱石公園で猫の昔を偲ぶことができます。

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